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中屋さんと「わたしの熱海の家」

語り手:中屋香織さん

かつて東京R不動産のメンバーだったがその後熱海に移住し、今は「ライフスタイルデザイナー」という肩書きで移住サポートの活動をしている女性がいることはなんとなく知っていた。「移住」の話はよく聞くようになったけれど、彼女が熱海に拠点を移した理由を知りたくて、新幹線で会いに行ってみた。

熱海駅から伊東線に乗り換えて10分ほどで着く網代駅が最寄りである。町に3〜4台しかいないというタクシーに乗り、石垣に沿って傾斜した道を登っていく。体をシートに押し付けられながら、すごい坂道ですね!とタクシーの運転手に言うと「熱海の坂はこんなもんじゃないよ、こんなのは緩やかな方!」と言われてしまった。昔、旅行で来た熱海駅近辺の旅館が、崖のような斜面に段々に建てられていたことを思い出して、あの地形が相模湾に沿って長々しく続いていることを知る。目的地に着いてタクシーを降りて海の方を見遣るも、のびのびと好き放題に育った雑木林に邪魔されて海は見えない。ちょっとがっかりする。しばらくすると、こぢんまりした二階建ての一軒家から白いワンピースを着た中屋さんがふわりと飛び出してきた。

玄関を入るとすぐに階段があり、2階へどうぞと案内してくれる。階段をトントンと上がった先に現れたのは、梁見せ天井のトップライトから自然光が差し込むリビング。オープンな棚には絵本や書籍、雑貨が並び、ところどころにお子さんの作品が飾られている。整頓されたキッチンと、大きく育った観葉植物。そしてぐるりを囲むテラスごしに相模湾の穏やかな海。わぁ...!と声が漏れる。

中屋さんは静岡県浜松市で生まれ育った。浜松は名古屋にも東京にもアクセスが良い「地の利」がある都市だ。人口が多く、県外に移り住まなくてもそこそこ充実した暮らしができるゆえに、人の出入りが少なく濃密なコミュニティが形成されやすかったのかもしれない。地方都市特有の閉鎖的な価値観とプライバシーのなさに辟易しながら、頑固で融通の効かない父親からはとにかく目立たないこと、普通であることを求められた。自己主張をしようものなら周りの大人が迷惑そうな顔をする、それが彼女のなかにある十代の記憶だった。

大学受験のタイミングで、とにかく浜松を出て父親から離れて自由に暮らしたい、と考えて選んだ受験先は音大だった。実家からの通学圏内には音大がなく、必然的に一人暮らしをすることになるからだ。

「大学のある場所なんてどこでも良くて、とにかく自由になることが目的だったんです。なんとなく10年以上続けていたピアノを理由に、音大へ進むからと家を出ました」

かくして静岡を飛び出し、埼玉にある音大のピアノ科へ進学。大学卒業後は、実家に帰らずに生きるために会社員になって自活しようと考えて、楽器の卸商社にとりあえず就職をした。そこで今の旦那さんと出会い、5年働いた後に寿退社をする。

時間に余裕ができたことで自身の暮らしや家のことに目が向いて、子どもの頃から部屋の模様替えや新聞の折込チラシの間取り図を見るのが好きだったことを思い出す。漠然と住まいに関わる仕事をやってみたいと思い、建築の専門学校でリフォームを学び、リフォームコーディネーターとして中古マンションの再販業者に再就職することになった。

入社してみると、リフォームコーディネートをする物件は自分で発掘する必要があるからと、任された業務は再販物件の仕入れ営業だった。一次取得者として売買物件を探している人たちに対して「中古マンションなら今の賃料と変わらない月額の支払いで物件を買うことができますよ」と提案して、リフォームやリノベーションで内装をぴかぴかにした中古マンションを売る事業だ。仕入れ営業は激務だったが高収入だし、夢のマイホームが手に入ってお客さんは喜んでくれる。でも、同じようなものを次々作っては売っていくことに、いつしか違和感を覚えてしまう。

「当時はお金を追っていたし、お金の先に幸せがあると思っていたんです。でも、あるとき自分のやっていることは、世の中にとって価値にならないと感じてしまった」

そのうえ、当時働いていた再販業者はトップダウン型の企業で、なにかを変えようと意見を言うと煙たがられるような空気があった。この会社で淡々と働く「物言わぬ社員」の一人にはなりたくない。父親にずっと求められてきた「普通で、目立たないこと」や、小さな社会の凝り固まった価値観から逃げるように実家を出てきたのに、これでは元の木阿弥だ。

そんな折に書籍を通して東京R不動産の存在を知り、一般的な不動産屋の価値観とは全く異なる視点と事業モデルに衝撃を受けたという。そこで働く人たちや扱う物件も素敵に見えて、憧れとともに自分にはこんな仕事はできないだろうという諦めも感じた。「普通でいるのは苦しい」と思って生きてきたけれども、すごく個性的に見えるスタッフのなかに自分が混じったとき、「実は本当に普通だった自分」と向き合わなければならないかもしれないことも怖かった。お気に入りのサイトとして眺めては妄想を膨らませるにとどまっていて、東京R不動産で働きたい!と門戸を叩くことになるのは、もう少しあとの話だ。

忙しく働きながらも、プライベートでは娘を授かり、生活はどんどん変わっていく。夫婦で横浜で暮らしていたが、子育てのしやすさや義理の両親の今後を考えて、自分から川崎区の宮前平にある夫の実家を改装して二世帯で暮らすことを提案した。宮前平は30分もかからずに渋谷までアクセスできるし、休日には子連れ世代で賑わう二子玉川も近い。悪くない選択に思えた。

「当時は、自分を取り巻く全体の幸せを考えて、最良の暮らしを選択をしたと思っていました。でも、いま思えばこの『自分をないがしろにした考え方』が良くなかった」

と、笑いながらうつむく。

産後から義理の両親との同居生活がスタートし、再販業者に復職して働きながら子育てをしていたが、しばらくすると自分で選択したことなのに違和感を感じ始めた。生活しやすいが色のないベッドタウンに住み、休日の過ごし方といえばショッピングや外食で、お金をかけなければ何も楽しめない。なんとなくストレスを抱えながら暮らしているなか、36歳の時に乳がんを患ってしまう。

幸い早期発見で転移もなく予後は良かったが、2週間の入院生活で自分の人生と向き合い、これまで「役割」のなかでしか生きてこなかったことに気づかされた。会社での役職、奥さん、お嫁さん、お母さん...周りから求められる役割はいくつもあったけど、どれもどこか演じているもので自分ではないような気がした。

私はどうあるべきか、どうありたいのか。

「普通であること」にとらわれて、しばらくの間自分が何をしたいかのスイッチをオフにして、本当の自分の心の声に気づかないふりをして過ごしてきた。置き去りにされた自分はすっかり拗ねてしまい、もう口を開いてくれない。

退院後は再販業者に戻ったが、これは自分のやりたいことではないと感じてすぐにやめてしまった。時間があるからと家の近所のカフェに行ってみても、ちっとも面白くない。でも、もし自分の住むまちに、自分の手で楽しい居場所をつくることができたら?こういう場所があるから、なにかやってみない?と提案することができたらどうだろう?場づくりを入り口に「まちづくり」に関わってみたいと思ったときに思い出したのが、東京R不動産だった。

「私も仲間に入れてください...!」

不動産仲介スタッフとして東京R不動産に仲間入りしてからは、物件を求めてやってくる個性的なお客さんたちに会うのが楽しみになった。普通の不動産屋さんでは話が噛み合わなかったけど、R不動産なら価値観を共有できて嬉しいと言ってくれる人もいた。そんなふうに自分軸、自分らしさを持つ人たちに囲まれて仕事をしているうちに、私も自分らしくいられる住処を探そうと思い立つ。ちょうど当時、東京R不動産が取り組んでいたプロジェクト「トライアルステイ」のイベントで三浦に行ったり、試しに実家のある浜松にも住んでみたりした。

そのとき、「場所」から家探しを始めた中屋さんが気づいたことは、場所探しや物件探しを起点にすると、自分がそこで暮らすイメージができないということ。自分らしくいられる住処を見つけるには、そこで営むライフスタイル全般をしっかりと描く必要がある。どういう暮らしを実現したいかを考えていないのに場所や物件を見に行っても、判断できないしまったくしっくりこないのだ。

「それでも、色んな人に会って話を聞いたりするうちに、だんだん解像度が高くなりました。私はこうしたい、というのが育ち、自信を持って家探しを進められるようになったんです」

ゆったりした空気感があって、海が感じられる開放感のある場所。山は奥まっていてさみしいような感じがするから少し違う。できれば畑もやってみたい。畑の野菜をとって家族に朝食をつくる、みたいな暮らし。まちづくりが始まってるところにじんわり入り込んで、まちや人と関わる仕事もしたい。

「欲しい日常と譲れない条件の最適解がここ熱海にあった、という感じ」

飛び出すようにして出てきた静岡県に帰ることに、どこか敗北感のようなものは感じなかったのか?と聞いてみると、仕事が理由だったら絶対に嫌だったと当時のことを振り返る。自分らしく暮らせる場所かどうかを基準に選んだ結果がJターンだったので抵抗はなく、むしろ自分に合う場所が見つかってほっとした気持ちのほうが大きかったのかもしれない。

今住んでいる家は、移住先を熱海エリアに決めてから物件を探して、描いたイメージ通りの物件が見つかったのでローンで購入した。もともとはかつて熱海に移住してきた老夫婦が所有し、二人で住んでいたという戸建て住宅だ。建物自体はコンパクトだが、斜面に沿った700㎡の敷地には前所有者によって梅や柑橘などの果樹が植えられ、畑もある。二階をぐるりと囲むバルコニーや手づくりのウッドデッキのテラスからは、老夫婦がここでの暮らしを存分に楽しんだことが感じられてなんだか微笑ましい。それをそのまま引き継いで、ほとんど内装には手を入れずに家族3人で暮らしている。

庭に出るとしゃがみこんで愛おしそうに足元の野草を摘み、これはフレッシュハーブでお茶になるし、こっちは料理にも使えるの、すごいでしょう?と教えてくれた。大人の背丈くらいに立派に育ったミモザの木はちょうど花盛り。庭のある斜面を少し上がると、見える景色がまた変わって、海はますます広く近く感じられた。

現在、ライフスタイルデザイナーという肩書で中屋さんがやっていることは、何らかの理由で住む場所や家を変えたいと考えている人と向き合い、相手の心の声を引き出して、理想の暮らしの解像度を上げること。対話の先に見えてくる移住先はどこでも構わないし、移住コンサルティングの相談者に対しても、場合によっては「移住しない」という選択肢も提示するだろう。不動産屋の視点から見るとお客さん未満の人を育てることになるから、成約することでお金をもらう不動産屋にはできない仕事だ。

リモートワークが一般化したことで、職種によってはどこででも仕事ができるようになったし、都心を中心とした住宅価格の高騰には歯止めがかからない状態で、現実的な選択肢として、一度くらいは頭の中に「移住」というキーワードが浮かんだことがある人は多いだろう。でも、妄想しているだけで踏み切れない人も多いし、移住をしてみたものの、なんらかの理由で結局東京に帰ってきましたという話を聞くことも少なくない。

いい移住をして自分らしい家と暮らしを手に入れるには、まずはネガティブな理由を考えるより、ポジティブな理想を持つこと、そして家というハコを目的にしないことが大事なのだろう。移住は理想の暮らしを手に入れる手段なのだから。そのうえで、具体的に誰と一緒に暮らし、どんな仕事をし、地域の人たちとどんな関わりを持つのか。何を食べて生きるのか。朝カーテンを開けたらどんな景色を見たいのか...自分の理想と素直に向き合って、自分にとって大事なことを見つけていく。そんなことを考えて本当の自分の思いを見つけていく作業は楽しいに違いない。そして気づけば判断基準ができていて、出会うべき場所や物件に出会った時、即決できる自分ができあがるのだろう。

そのプロセスに伴走して、漠然と移住したい人や東京ではないどこかで家を探している人が、妄想からリアルに近づいていき、どんどん楽しくなっていく姿を見るのが嬉しい、と中屋さんは言う。

不動産屋は、お客さんの選択肢を狭めながら成約に向けて仕事をしがちだが、今はむしろ相談者がどう暮らしたいのかを引き出して選択の幅を広げるような、真逆のことをやっている。伴走したら終わりではなく、サポートをした相手の家に遊びに行ったりもするし、ともにここのまちでの暮らしを育て楽しむ仲間のような感じで、いい関係を続けているそうだ。

あたらしい土地に馴染みながら、その風土や慣習を引き継いで生きていくのは、まるきり別な人生が始まるようで考えただけでワクワクする。中屋さんのように、移住先で物件との良いマッチングが生まれれば、その土地ならではのライフスタイルやメリットをまるごと引き継ぐことができることも魅力だ。かつてその地で暮らしていた人から、生活の知恵や季節ごとの楽しみを教えてもらうような気持ちで日々を過ごすのは、なんだかとても贅沢なことのように感じられる。

地方出身の私も、いつかUターンや移住をするかもしれない、なんてぼんやり考えながら、鮮明なイメージを持てないまま都心で暮らしている。東京に居る理由を探しながら生きることより、もっと大事な何かが見えたときには、中屋さんに相談してみようかな、と思う。

語り手:中屋香織さん
Atami Stayle:https://nakayakaori.com/

取材・構成:矢崎 海 / 写真:阿部 健二郎

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