JR千駄ヶ谷駅から徒歩数分、住宅街を縫って歩いていくと、緑のロゴがなんとも時代を感じさせるマンション「Castilo(カスティロ)」にたどり着く。築年数を経たマンションの1階にあるアトリエ、その玄関を開けると、なかから早速笑い声が聞こえてきた。
アトリエに一歩入って、真っ先に目に入るのは大きなキッチン。「広大」という表現の方がしっくりくる。奥には、庭に続く大きな窓があり、観葉植物が程よい距離感を保ちながら並んでいた。
円形の木製テーブルを挟んで麻生要一郎さんの前に座るのは東京R不動産ディレクターの林。珈琲とお茶うけに置かれたヨックモックに手を伸ばしながら、笑い合う。
要一郎さんは茨城県に生まれて、専門学校を卒業したのちに、実家が経営する建築会社に次期社長と嘱望されて入社した。「この会社をゆくゆくは継がなければいけない。そういう覚悟をしての入社でした」と振り返る。
学生から新社会人へ。周りの友人に目を遣ると、学生生活の延長線さながらの社会人生活を謳歌している。一方、自分は苦手な接待の席に呼ばれ、また夜に独り従業員の給料計算をしている…。昭和から平成へ、時代を経てもなお、建設業界に流れる封鎖的な因習とお作法、泥臭い人間関係のなかに立ち、跡取りとして経営学のノウハウから業界で生き抜くイロハを急ピッチで飲み込み、時間に余裕がない中、ひとつの決断にたどり着く。
「会社を辞めて、自分の為に時間を使ったら、もっと人生が楽しくなるんじゃないか」
地方で、それなりに名前を知られた会社の跡継ぎがその座を辞するには、その代償はあまりにも大きい。それでも、要一郎さんは自分の足元に絡みついていた木の根のような親族の縁を切り、別の人生を歩むことを決意する。生まれた時から決められていたレールを自らの意思で降り、自由を手にいれた。しかし、当時は大きな喪失感に苛まれてしまう。それは後悔や未練ではなく、人生を変える決断をした、反動かもしれない。「会社」というしがらみを捨てても、明確なやりたいことを見つけられないまま日々を過ごしていた。
そんな折、偶然が重なって要一郎さんは「新島」にたどり着く。
きっかけは、当時、新島で小さな宿泊施設を開きたいと思っていた林が要一郎さんに声を掛けたことだった。誘われるまま新島を訪れ、この土地で2008年から丸7年と、決して短くはない時間を過ごすことになる。
「初めて新島に着いた日は、人も歩いて無くて、冬だったから海も暗くてね。まったく明るいイメージを持てなかったの。でも、東京でいつもしかめっ面している林さんがね、この島でただ散歩しているだけなのに、すごくはしゃいで(笑)。坂道を子どもみたいにキャッキャしながら駆け上がったりして」と、思い出し笑い。
「この場所で頭の中を真っ白にして、揺蕩うように過ごす毎日も良いかもしれない」
観光地として支持される新島の風景ではなく、島自体が持つ力に触れ、「自分にとっても“すごく良い場所”になる」と、新たな一歩を踏み出した。
いざ新天地を決めると、そこから『カフェ+宿 saro(サロー)』オープンに向け忙しい日々を過ごした。建物のリノベーションやしつらえを進めながら、料理のことや、この場所の風景を考えていった。そして、人集め。たくさん残っていた荷物の片づけを手伝ってくれる人、その中から宿の日々の仕事を一緒にしてくれる人を探していった。募集をかけるうちに、それまで全く知らない人たちが要一郎さんの元に集まり始めた。
「働くというより、一緒に暮らすという感覚でしたね。徐々にお互いの距離感は縮まって、夜になると、みんな自分の過去の話や、ここに至るまでの背景を語ることもあって」
そう、新島の民宿経営は要一郎さんにとってまるで“遅れてきた青春”だったのだ。もともと人見知りで、集団行動は大の苦手。新しい場所で、知らない人と何かを始めることになるとは思いもしなかったが、気が付けばひとつ屋根の下で寝食を共にする日々。
フリーのイラストレーターや編集者など、これまで全く接点のなかった者同士が、文字通り同じ釜の飯を食べるうちに、まるでホームドラマさながらの疑似家族となり、それぞれの役割ができていく。ここでゆっくりと温められた居心地の良さが得難い経験となり、今後の未来図に大きなヒントをもたらすことになる。
2014年に建物の事情からsaroをクローズしたが、時期を同じくして実母の介護のために一旦実家がある茨城へ戻ることになった。そして母親の最期を看取り、そこから現在の住まいに落ち着くことになる。
「千駄ヶ谷、北参道の辺りが良い」というスピリチュアルな友人の言葉だけを頼りに、エリアを絞って部屋探しをスタート。愛猫・チョビと暮らす部屋はなかなか出てこなかったというが、今住んでいる部屋は内見したその場で申し込みまで済ませてしまった。
要一郎さんは現在の住まいに「賃借人」ではなく「大家」として住んでいる。しかし、このマンションを購入したわけではない。
実は、要一郎さんの“麻生要一郎”という人生は、この部屋から始まった。
契約の日に、担当の不動産屋から「大家さんがどうしても会いたがっている」と告げられた。大家さんは、マンションの上階に住む70代と80代の2人姉妹。身だしなみは丁寧に整えられ、気軽に“おばあちゃん”とは呼ばせない女性としての艶っぽさを持っていた。そこで要一郎さんは、彼女たちに妙な提案を持ちかけられる。
「アナタは、もう独りなんでしょう? 私達もなの。ずっと楽しく暮らして来たらこの歳になってね。どこかに嫁ぐ柄でもなかったから、本当に独りなの。だからね。この先、私たちに何かあったら、このマンションをアナタが引き継いでくれない?」
「あぁ~、そうですねぇ~」と生返事をする。
歳を重ねた姉妹は、マンションの住人の誰しもに同じような話をして、どこか安心を得ているだけのことだろうと、軽く流していた。実際、そこから顔を合わせる度に軽い挨拶と天気の話、その延長線にいつも同じ話が向けられた。
しかし、最終的に要一郎さんは姉妹の養子となり、戸籍ももちろん変更する。姉妹の希望どおりにこのマンションを相続し、今に至る。姉妹から世間話ではなく、ハッキリと「ウチの養子になりなさいよッ」と言い渡されたのは、2人が終活としてお墓を購入する日。店頭で契約書にサインをする、その瞬間だった。
スタッフが契約書を机に広げ、購入に際してサインを求めると、隣に座っていた妹の方が、それまで掛けていたハイブランドのロゴ入りサングラスをパッと外し、要一郎さんを真っすぐ見つめる。「もう、麻生要一郎になりなさいよ。私たちの代表者として、ココに名前を書きなさい」と言い切った。ここでようやく今までの話が本気だったと気づく…。
「少し考えたんだけど、まぁそれもいいかなって」と、拍子抜けするような潔さで、まだ戸籍を移してもいないのに“麻生要一郎”が誕生した。まるで笹の葉で作った舟が川上から川下へ抗わず流れていくように始まった東京暮らし。話を聞くだけでは順風満帆に感じる。
「最初は不安だらけ(笑)それでも、とりあえず、何か料理をしていれば、生きながらえる気がした」
料理人を目指して何年も修行を積むようなことではなく、誰かと繋がることで日々を楽しむ。そのコミュニケーションツールとして料理が介在している。だから、このアトリエのキッチンはこんなに広く、そこにエプロンを掛けた要一郎さんが立っているだけで、部屋ごと温かい場所になっていくにちがいない。
トントン拍子で麻生家の養子となり、資産も受け継ぎ、仕事も順調と、かなり強運に思える。でも、要一郎さんが幸せそうなのは、決して運だけではないだろう。家業を辞したとき、もっと大きなものと決別している。そこからは、自分の前に差し出されたものに対して「好きじゃないことは、なるべく避ける」と決め、反対に料理を通じて繋がった相手には決して見栄を張らず、自分を大きくみせるようなことはせず、丁寧に実直に向き合うことを重ねた結果、今に繋がっているのではないだろうか。
料理家としてWEB媒体からテレビ、雑誌など様々なメディアに登場するようになった要一郎さんの台所は、流行の“映える”アイテムたちがおしゃれに並び、ドラマの撮影現場さながらの料理家インフルエンサーのキッチンとは少し違う。
食べる相手を思い、食事を囲む時間を想像しながら作る場所として、こだわったのが「広さ」だ。調味料に菜箸、お鍋など、どれも手を伸ばせばすぐに使いたいものに届くように並べられ、その隙間を縫うように、パートナーが育てているというグリーンが顔を出す。お気に入りのアイテム達が所せましと詰め込まれている。
アトリエには千駄ヶ谷に越してきてから知り合った人、それ以前に知り合った人がいつも訪れ、食事をして談笑をして帰っていく。「こんにちは」ではなく「ただいま」と言いながら、玄関の扉を開く人の方が多い。
来年、要一郎さんはこのマンションに越して10年目を迎える。これからの事を尋ねると「全体をこうしたい! という構想なんてないんですよ。きっと行き当たりばったりになるでしょうね」と笑顔を見せ、一方で新島の宿『saro』で集まったスタッフと雑居をした過去をヒントに、1つの構想があるという。
現在の「Castillo」は賃貸向けの16部屋が満室状態。1部屋ごとに退去のタイミングで水回りなどをリフォームしながら、ゆっくりと全体のリノベーションを目指していくそうだ。そして新たな入居者として、なるべく知り合いの人を迎え入れたいと語る。個々に部屋を持ちながら、このアトリエで皆でご飯を食べて、またそれぞれの仕事場に帰っていく。まさに「新島の暮らしの延長線でしょ」と嬉しそうに笑う要一郎さんは、まるで昭和の下宿人を抱えた大家さんそのものだ。
ホスピタリティが高い人、おもてなし力の高い人、接客のプロ…。どれも要一郎さんを言い表すにはピタッとハマらない。ただ、麻生要一郎という人は受け身の名手だと思う。周囲の声を素直に聞き入れる耳を持ち、意見を取り入れることに躊躇が無い。だから突然の新島生活も楽しめて、養子にもなるし、料理家でエッセイ本も書く。
ただ唯一、「好きじゃないことは、なるべく自分から遠くに置く」ということは決めているような気がする。それを20代で苦しかったサラリーマン人生を手放した時に教訓として得て、今の要一郎さんが目の前の人と料理でつながる際に、自然と幸福感を生み出すメソッドの1つになっているようにも思えた。
そんな彼の考え方や感性が「Castillo」との不思議な出会いを生み、その未来の姿を自然に導いているのだろう。要一郎さんがこれから時間をかけて丁寧に育てていく新しい雑居世界は、これから多くの人にとって一つの理想とも言える共生のかたちになっていくようにも思える。
取材を終えて外に出ると、もうすっかり日は暮れていた。実はこの日、取材の最後の最後で、私はカバンに着けていたレザーのキーホルダチャームを、アトリエのソファーの隅っこに落としてしまった。数分探してみたが見つからず、高価な物でもないので諦めようとした時に「パートナーがね、探し物を見つけるのうまいのよ」と要一郎さん。でも、私はこのまま出てこなくても良いと思っている。そうすれば「キーホルダー探しに来ました」と、またあのアトリエを訪れるチャンスがあるかもしれない…と、淡い期待を寄せている。
語り手:麻生要一郎さん
Instagram:@yoichiro_aso
取材・構成:こいえ さわこ(中目黒土産店) / 写真:阿部 健二郎
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